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↑友人Dが付けた私のキャッチフレーズ
28歳のリゾルーションは、「本質への回帰」。 このブログが数年後に、自分の回顧展になればいいなと思います。 イタリア人になりたい!ってのが切なる望み・・・ あと名前に"="(ハイフン)を付けたい! Spicyなものたち ---Artyなもの ・ダミアンハーストに代表されるYBA、日本人なら岡本太郎と葛飾北斎。でも恋こがれるのは芸術テロリストのバンクシー ・ビデオアート(アーティストはクリス・カニンガム!) ・ギャラリーなら04以前のSaatchi(LDN)かPS1(NY) ・映画はハッピーエンドが嫌い、後にもやもやする位のものが好き♪ ・今読んでる本は、夢野久作のドグラマグラ ・好きなサブカル雑誌は別冊宝島とサイゾー。おしゃれ雑誌よりダークサイドなものが好き。"媚び”が少ないから男性誌が好き ・音楽はHouse,Electronica全般,Dub,Grageなど脳髄にブチ込まれて、体の芯がブレるような音楽が好き♪クラシックは是非とも短調で ・今までで一番良かった音楽イベントは、もちろんイビサのレイブ ・最近の好きなDJはFRANCOIS K, Felix, Tiefschwarz, TIESTO, sasha, John digweed ・クラブはPlastic People・The end(LDN)、Cielo(NY) ・ロンドンNo1バーはドラゴンバー 一見退廃した感じがイーストエンドをよく表してる ---好きなタイプ ・美中年!具体的にはジュリアン・ロイド=ウェッバー ---Study ・もし時間もお金も許されるのなら精神医学かMBAを学びたい。 ---好きな食べ物 ・マンゴー、黒ゴマ、抹茶 ・生肉,魚介類全般 ・タイ,ベトナム,メキシコ料理 パクチー最高!ハーブ・スパイス大好き♪ ---Foot ball ・チームはACミランとイタリア代表 ・選手はジダン、ロナウジーニョ、リオ・ファーディナンド、インザーギ、シェフチェンコ、ネドベド ・必ず泣けるのはドーハの悲劇のVTRとなでしこJAPANの試合 ---旅行 好きなエリアはLDNではショーディッチ、NYならミートパッキング 洗練と虚無、商業性と廃墟感を兼ね備えながら、そのポテンシャルから生まれたartが根付いてる街が好き あと水辺が好き。リラックスが下手な私でもなんだか落ち着いてしまう。 ・近々計画中の国 メキシコ、台湾、バリ ・行ってみたい国・都市 エジプト、モスクワ、インド、チュニス ・海外旅行歴 (trangitのみは除く) 2005年10月 ロンドン、ドバイ 10日間 蝦夷の国(!? )2日間 2005年8月 カンボジア(アンコールワット)、ベトナム(ホーチミン) 6日間 2005年5月 NY 2週間 2004年7月 アイルランド(ダブリン)2日 2004年6月 イギリス(エジンバラ、グラスゴー) 3日間 2004年3月 スペイン(バルセロナ、バレンシア)3日間 2004年1月 イタリア(ミラノ) 3日間 2003年9月 ギリシャ(アテネ、ミコノス島、サントリーニ島)、トルコ(イスタンブール、イズミル、チェシメ) 2週間 2003年8月 フランス(ニース)、モナコ 5日間 イギリス(ブライトン) 1日 2003年7月 スペイン(バルセロナ、バレンシア、カステリョン、グラナダ、セビーリャ、マドリッド 3週間 2003年1月 スペイン(バルセロナ、グラナダ)、モロッコ(フェズ、メクネス) 1週間 2002年12月 イタリア(ナポリ、シシリア)、マルタ共和国 1週間 2002年10月~2004年9月ロンドン 2年 2002年1月 オランダ(アムス)、ドイツ(ベルリン、ドレスデン、ミュンヘン)、チェコ(プラハ) 1週間 2001年2月 イタリア(ローマ、フィレンツェ、ベニス、ミラノ) 1週間 2000年8月 パリ 5日間、タイ(バンコク)12時間 最新のトラックバック
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2005年 12月 27日
ユーゴスラビア紛争は、旧ユーゴスラビア連邦解体の過程で起こった異民族間の対立による内戦である。ソビエト連邦が崩壊する1991年からスロボダン・ミロシェビッチが退陣する2000年まで続いた。
第二次世界大戦ではドイツ、イタリアに支配されていた多民族国家のユーゴスラビアでは、戦後にパルチザン勢力を率いる指導者のヨシップ・ブロズ・チトーによって独立を達成する。 ・七つの国境 ・六つの共和国 (スロヴェニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロ、マケドニア) ・五つの民族 (スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人) ・四つの言語 (スロヴェニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語) ・三つの宗教 (ギリシア正教、カトリック教、イスラム教) ・二つの文字 (ラテン文字、キリル文字) ・一つの国家 といわれるほどの多様性を内包した国家であった。 なお、「五つの民族」には含まれていない主要民族としてムスリム人、また少数のロマ人なども存在した。 戦後の世界はアメリカ合衆国を中心とする西側陣営とソ連を中心とする東側陣営が対立する冷戦がはじまる。ユーゴはチトーが共産主義者であり東側陣営に属するが、ポーランドやハンガリー、ルーマニアなどの東欧諸国とは違い、ソ連の衛星国では無い独自の社会主義国家としての地位を保っていた。1980年にのチトーが後継者を定めないまま死去し、ソ連国内においてはゴルバチョフ指導による民主化が進み、ルーマニアにおけるチャウシェスク処刑に代表される東欧民主化で東側世界に民主化が広がり共産主義が否定されると、ユーゴにおいても共産党による一党独裁を廃止して自由選挙を行う決定し、ユーゴを構成する各国ではチトー時代の体制からの脱却を開始する。大セルビア主義を掲げたスロボダン・ミロシェビッチが大統領となったユーゴの中心・セルビア共和国では、アルバニア系住民の多いコソボ自治州の併合を強行しようすると、コソボは反発して90年7月に独立を宣言し、これをきっかけにユーゴスラビア国内は内戦状態となる。 内戦一覧 スロベニア紛争(十日間戦争)(1991年) 文化的・宗教的に西側に近いスロベニアがユーゴスラビアからの離脱・独立を目指した戦争。規模は拡大せずに10日で解決した。十日戦争、或いは独立戦争。 クロアチア紛争(1991年–1995年) 歴史を通じてセルビアと最も対立していたクロアチアがユーゴスラビアからの離脱・独立を目指した戦争。歴史的な対立を背景に戦争は泥沼の様相を呈したが、4年の戦争の末に独立を獲得した。 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(ボスニア紛争)(1992年–1995年) ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナだったが、国内のセルビア人とクロアチア人・ボスニャク人が対立し、セルビア人側が分離を目指して戦争となった。国際連合やNATOの介入によって停戦となった。 コソボ紛争(1999年) セルビア国内でもコソボ自治州が独立を目指したが、セルビアの軍事侵攻によって戦争となった。 マケドニア紛争(2000年) 複雑な歴史背景による入り組んだ民族配置は、NATOや国際連合の介入により紛争の規模は縮小された。 ユーゴスラビアの建国、歴史についてはコチラ↓ ユーゴスラビアは、1929年 - 2003年の間に存在した東ヨーロッパの国。 首都はベオグラード。1918年にセルビア・クロアチア・スロベニア王国として成立。 1929年ユーゴスラビア王国に改名。1945年からは共和制。 1991年からのユーゴスラビア紛争により解体。 その後現在のセルビア・モンテネグロが2003年までユーゴスラビアを名乗る。 バルカン半島に位置し、国境をイタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニアなどと接していたユーゴスラビア「南スラヴ人の土地(Jugoslavija )」を意味する。 歴史 (近代)セルビア王国(第一次世界大戦まで) <第一のユーゴ> 第一次世界大戦中、汎スラヴ主義を掲げてオーストリアと戦ったセルビアはコルフ宣言を発表し、戦後のバルカン地域の枠組みとして既に独立していたセルビア、モンテネグロに併せてオーストリア・ハンガリー帝国内のクロアチア、スロベニアを合わせた南スラブ人王国の設立を目指すとした。1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア・ハンガリー帝国が解体させられるとクロアチア、スロベニアもオーストリア・ハンガリー帝国の枠組みから脱却して南スラブ人王国の構想に加わりセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国(セルビア・クロアチア・スロベニア王国)が成立した。 新しい王国の下では、地方行政の区分けが自然の川や分水嶺によって設定されセルビア人やクロアチア人と言った民族の違いによる地域の区分は全く無視された。それに加え、中央集権国家を目指した王国はベオグラードのセルビア人が中心になって運営されたたため、クロアチア人の不満は大きいものとなった。 1929年には国王アレクサンダルが憲法を停止して独裁制を布告し、ユーゴスラビア王国と国号を変更した。1931年に新憲法を布告し、セルビア主義と国王独裁を強めた。このため、クロアチア人の不満はいっそう高まる事になった。1934年、国王アレクサンダルがフランス外相とともにマルセイユで暗殺され、ぺテル2世が即位した。当時、この暗殺はクロアチアの民族主義者の手引きによるものと考えられたが、真相はわかっていない。アレクサンダル暗殺後はクロアチアの要求をある程度受け入れる方針に転換し、1939年にはクロアチア人の自治権を大幅に認めクロアチア自治州を設立させることで妥協が成立した。しかしこの妥協はユーゴスラビア内の矛盾を拡大しただけで終わったと言える。 <第二次世界大戦> クロアチア自治州の成立だけでは満足せず、更にクロアチアの独立を目指したのがクロアチア人による民族主義グループのウスタシャである。1941年、ナチス・ドイツはイタリア、ハンガリー、ブルガリア等の同盟軍と共にユーゴ進撃を開始し、ユーゴスラビアを分割占領した。又クロアチア地域ではウスタシャに拠る政権を新しい地域の為政者として同盟を結んだ。 ウスタシャはドイツの支援を受けてユーゴスラビアを解体し、クロアチア独立国を成立させた。クロアチア人はセルビア人への復讐を始め、強制収容所にセルビア人を連行して虐殺したと言われる(後に大量の遺骨が地中から発見されており、真実と思われる)。 ドイツに侵攻されたユーゴスラビア王国政府はロンドンに亡命政権を樹立し、ユーゴスラビア王国軍で主流であったセルビア人将校を中心としたチェトニックを組織してドイツ軍に対抗した。しかし旧来のユーゴスラビア王国内の矛盾を内包したチュトニックは士気が弱く、却ってクロアチア人を虐待するなどしたためセルビア人以外の広範な支持を広げることが無かった。代わってドイツに対しての抵抗運動をリードしたのはヨシップ・チトー率いるパルチザンであった。パルチザンはドイツ軍に対して粘り強く抵抗し、ソ連軍が侵攻してくる以前にユーゴスラビアの自力での解放を成し遂げた。 <第二のユーゴ> 自力でのユーゴスラビア解放に成功したチトーは、王の帰国とロンドンの亡命政権を否定し、従来のユーゴスラビアの枠組みの中で、戦後の再建を始めた。戦後の政権党となったユーゴスラビア共産党(その後1952年にユーゴスラビア共産主義者同盟に改称)は、1948年にコミンフォルムを追放されて以降、ソ連のコントロールから外れてアメリカが戦後のヨーロッパ再建とソ連への対抗策として打ち出したマーシャル・プランを受け入れる姿勢を取り、東ヨーロッパ諸国を衛星国として取り込もうとしていたソ連と対立して、断交と国交回復を繰り返した。ソ連と対立したため、又東ヨーロッパの軍事同盟となるワルシャワ条約へ加盟せず(できず)、冷戦下における独自の安全保障策として非同盟運動 (Non-Alignment Movement, NAM) を始めるなど独自の路線を打ち出した。又特にソ連から侵攻されることを念頭に置いて、各地域にユーゴスラビア連邦軍とは別個に地域防衛軍を配置し、武器も配布した。これらの地域防衛軍は後のユーゴスラビア内戦時において各独立国の戦力となり、配布されていた武器も武力衝突が拡大する原因となった。 社会主義建設においては、ソ連との違いを打ち出す必要に迫られた。こうした中で生み出されたのがユーゴスラビア独自の社会主義政策とも言うべき自主管理社会主義である。これは生産手段をソ連流の国有にするのではなく、社会有にし、経済面の分権化を促し、各企業の労働者によって経営面での決定が行われるシステムであった。(このため、ユーゴスラビアでは各企業の労働組合によって社長の求人が行われる、他のシステムとは全く逆の現象が起こった。)この自主管理社会主義は、必然的に市場を必要とし、そのため後にユーゴスラビア内戦の要因の一つとなる地域間の経済格差が拡大していく事も内包されていた。ただし市場の完全な導入には踏み切れなかったため、不完全な形での市場が経済成長に悪影響を及ぼす矛盾も内包していた。 第二のユーゴはスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国とセルビア共和国内のヴォイヴォディナとコソヴォの2つの自治州によって構成され、各地域には一定の自治権が認められた。これらの地域からなるユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは「7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字により構成される1つの国」と表現されたが、戦後の長期間にわたって平和が続いたことはひとえにチトーのバランス感覚とカリスマによる所が大きいとも評される。チトー晩期には6共和国と2自治州を完全に同等の立場に置いた憲法が施行された。1980年にチトーが死去すると各地から不満が噴出する事になった。 先ず、同年にコソヴォで独立を求める運動が起こった。地理的に西ヨーロッパに近く、最も経済的に成功していたスロベニアでは1980年代中ごろから、南側の共和国や自治州が、スロベニアの経済成長の足を引っ張っているとして、分離の気運が高まった、クロアチアでは政府がセルビアに牛耳られているとする不満が起こり、セルビアでは自分達の権限が押さえ込まれすぎているとして不満であった。経済的な成長が遅れている地域では社会主義でない事に対して不満が起こり、経済的に成長している地域では完全に自由化されていないことに対して不満であった。 東欧革命が旧東欧の共産主義政権を一掃すると、ユーゴスラビアでもユーゴスラビア共産主義者同盟が一党支配を断念し、1990年に自由選挙を実施すると、各共和国には何れも民族色の強い政権が樹立される事になった。この時セルビアに台頭したのが、ソロボダン・ミロシェビッチ率いるセルビア民族中心主義勢力である。1990年から翌1991年にかけて、スロベニアとクロアチアから連邦の権限を極力制限し、各共和国に大幅な自治権を認める提案を行ったが、セルビアとモンテネグロはこれに反発。遂に1991年6月には両共和国がユーゴスラビアからの独立を宣言し、スロベニアとの間の十日間戦争、クロアチアとの間のクロアチア紛争が勃発。一連のユーゴスラビア紛争に突入した。十日間戦争は極めて短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し、第二次世界大戦中のウスタシャとチェトニクの関係を思わせるような相互に略奪、虐殺、強姦を繰り返す泥沼に突入した。更に翌年ボスニア・ヘルツェゴビナの独立を契機にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が開始される。ボスニアではセルビア、クロアチア、ムスリムの混住がかなり進行していたため、状況は更に酷く、又これにセルビア、クロアチア両国が介入したため、こちらも長期化、泥沼化した。 クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は1995年になって漸く終結をみるが、セルビアがこれらの地域からのセルビア人難民のコソヴォ殖民を強力に推し進めたため、コソヴォにおける民族バランスが大きく崩れる事になった。これに危機を抱いたコソヴォ民族派によりコソボ紛争が引き起こされ、1999年 NATOによる爆撃、その後の和平協定に基づく国連暫定統治機構 (UNMIK) の設置につながった。ミロシェヴィッチは、大統領の座を追われ、ハーグの国際戦犯法廷に立たされる中、同国はセルビア・モンテネグロに名称を変更し、ユーゴスラビアの名は消滅した。 <1945年以降> スロベニア共和国(1991年6月に独立を宣言) クロアティア共和国(1991年6月に独立を宣言) マケドニア共和国(1991年に独立を宣言、1992年3月に完全独立) ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国(1992年3月に独立を宣言その後内戦へ、1995年12月和平に調印) セルビア共和国(2003年、「セルビア・モンテネグロ」として連合国家を維持) ヴォイヴォディナ自治州 コソヴォ自治州 モンテネグロ共和国(2003年、「セルビア・モンテネグロ」として連合国家を維持) <経済> 1980年代の末期まで、ユーゴスラビアではソ連や他の社会主義国家とは一線を画した経済方式を導入しており、この経済方式を自主管理方式と呼んだ。ユーゴスラビアでは生産手段である、工場や工業機械の他に、経営方針も労働者によって管理されるものとされ、その範囲内で経営責任者が労働者によって募集されると言うこともよくあった。 又西側資本の受け入れにも積極的であり、西ドイツ(当時)のスニーカーメーカーであったアディダス社などがユーゴスラビアに工場を構えていた。 <スポーツ> サッカーの強豪国のうちの一つであった。ワールドカップには1930年の第一回大会から出場している。ワールドカップでは1930年大会の3位(ただし3位決定戦は無し)、1962年大会の4位等がある。ヨーロッパ選手権では1960年大会、1968年大会での準優勝がある。年齢別の大会では1987年のワールドユースでの優勝がある。1960年代以降ユーゴスラビアが国際的なタイトルに最も近づいたのはドラガン・ストイコビッチらを擁した1980年代後半になってからで監督はイビチャ・オシムであった。1990年イタリア大会では準々決勝で一人少ないながらも優勝候補であったアルゼンチンに120分間でドロー。PKで敗退したものの1992年のヨーロッパ選手権の優勝候補に押す者が後を絶たないほど強烈な印象を残していった。しかし一方でユーゴスラビアの解体が進んでおり、1991年までに行われたヨーロッパ選手権予選を勝ち上がったものの、同年スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアを離脱。更に本大会直前になってボスニア・ヘルツェゴビナもユーゴスラビアを離脱。ユーゴスラビア連邦軍がサラエボに侵攻するにあったって監督のイビチャ・オシムが辞任。国連はユーゴスラビアに対しての制裁を決定し、これに呼応して国際サッカー連盟、欧州サッカー連盟はユーゴスラビア代表の国際大会からの締め出しを決定。既に開催国であるスウェーデン入りしていたユーゴ代表は帰国し、こうしてユーゴスラビアの解体と共にユーゴスラビア代表も解体してしまった。この大会の優勝はユーゴスラビアの代わりに出場したデンマークであった事は皮肉以外の何でもない。 旧ユーゴスラビア構成諸国家にも、強豪としてのユーゴスラビアの伝統は継承され、ワールドカップ1998年大会では、クロアチアが3位に入り大きな驚きを呼んだ。更にサッカーが盛んとは言えないスロベニアも2000年のヨーロッパ選手権本大会、ワールドカップの2002年大会と続けて本大会に出場しこれも大いに驚かされた。こうしたユーゴスラビアの強さの秘密の一つとしてサッカーをアカデミックに捉える試みが行われた事が上げられる。大学の講座の一つとしてサッカーのコーチングが教えられており、旧ユーゴスラビア出身の監督の多くはこれらの修士号や博士号を持っている場合が多い。又旧ユーゴスラビア出身のサッカー監督は極めて多いと言ってもよいだろう。 Quote from: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
by spice_addict
| 2005-12-27 09:58
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